画像:ルネ・マグリット「 これはリンゴではない 」
自己紹介の延長線として、こちらの記事を書いてみます。
物心ついたときから 生きづらさ を感じていたわたしは、「わたしは、なぜ生まれてきたのだろう?わたしとは、なんなんだろう?」というような疑問を自然と抱き始めるような子供でした。
ノートにあれこれ書いて今思えば自分なりに内観をしてみたり、心理学などの心に関する本を読んでみたり、精神世界にも自然と興味を持っていきましたが、それでも苦しみ(生きづらさ)は解けず、非二元・ノンデュアリティ・悟りというようなテーマに入っていきました。
悟れば……この苦しみから抜け出せるとおもったからです。
必死で アタマで考える…という探求 をしました。非二元ノンデュアリティ悟りについての本を読み、覚者と呼ばれるような人が書いた本を読み、それらの内容を必死でアタマで理解しようとする 思考で「わかろう」とする思考的探求 をしていました。
アタマで理解できたら…わかったら…それが起きると思い込んでいたからです。
けれど、あるとき、気づいたんです。
そういうことじゃない…
いくら考えても、たとえアタマ・思考・コトバでわかったとしても、「わかった・理解できた」ということにはならない、「それそのもの」ではない、それは単なるコトバ(概念的理解)でしかない。
まさに、上記のルネ・マグリットの絵画
「 これはリンゴではない 」が指し示していることです。
このリンゴの「絵」は リンゴそのもの ではない。
リンゴの品種名をどれだけ知っていても リンゴの味 はしない
「富士山」についてどれだけ詳しくても、富士山を登ったことにはならない
それとこれはまったくの別物なのですが、「飛ぶ」というコトバを知っているだけでまるで「飛ぶそのもの」を知っているかのように勘違いしてしまっているのが、アタマ・思考の中です。そういう意味では、あらゆる人間の理解というのは 知ったかぶり(無知の知がおきていない状態)ともいえます。
「 わかっていない・わからない 」ということに、気づいていないのです。
わたしは非二元(ノンデュアリティ)という
物語性の希薄さ
にとてもシンプルな美しさをかんじます。
物語がないということは「 アタマではわからない 」ということです。
アタマでわかってしまうということは、そこにはアタマ(思考)でわかるための物語性・概念が必要で、そのようなストーリー(コトバ)が展開しているはずです。
わからないまんまの完璧な「 ある 」
この 無言のありようの美しさ が非二元(ノンデュアリティ)として語られているものです。
以上のようなことについて
一冊目のKindle本 『 これ以外のなにかはない 』
( その改訂版が書籍化された『 いま「ある」くつろぎ 』 )でも書かせていただいています。